2022/12/17 07:00
ぱーぷる編集部(塩田)
織田信長も認めた、今井町繁栄の象徴【今西家住宅|橿原市】
五條市新町と宇陀市松山と並んで、「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている奈良県橿原市今井町。
今井町内には全部で9つの重要文化財が点在しているが、『今西家住宅』は今井町の繁栄を語るうえで最も外せない存在。
『今西家住宅』の西側に今も残る壕。外観は家というよりも、城と表現する方がふさわしい
ここで簡単に今井町の歴史を説明しておこう。
今井町は、16世紀に一向宗の門徒が『称念寺』を建て寺内町を作ったことから始まる。
町を守るため、武力を蓄え壕をめぐらした人々。
世は"戦国時代"、"一向宗"ときたら思い浮かぶのが、そう天下統一を目指す織田信長だ。
今井町は「信長包囲網」に協力し、信長に対抗したが、1575年に明智光秀や堺の商人たちの口添えがあり、信長に降伏。
自治特権が許されると、大阪や堺との交流が行われ、江戸時代には独自の紙幣「今井札」を発行するほど栄えた。
今西家の祖先は「十市県主(とおちのあがたぬし)」という、天皇の血統にも繋がる豪族。
今西家は、今井町の西側にあった。
奈良県の西側といえば大阪府、戦国の世が終わったのは"大阪"夏の陣。
5代目である今西正冬は、環濠集落をより強固に補強して、城塞都市化を行うなど今井町を戦火から守るために尽力。
"今"井町の"西"側を守ったから"今西家"。
今井町を語るうえで、今西家が欠かせない理由だ。
「民家の法隆寺」
『今西家住宅』は、1650年に建立され、日本では3番目に古い民家。
釘を使わない建築技法で、地震の際は揺らすことで、力を逃がし、瓦を落とすことで倒壊を防いだ。
昔ながらの知恵は、現代の人々も見習うことばかり。
17世紀の建築様式が残ることから、建築史家の間では、「民家の法隆寺」と呼ばれている。
小さな戸をくぐると、広い土間が見える。
かつてここは「お白州」、現代で言う裁判所だった。
罪人は白状しない場合、2階の牢屋に連れられ、下から煙を燻した。
煙たさに我慢できない罪人は、きっとすぐに罪を告白したことだろう。
信長も認めた今井町
先述したとおり、信長に降伏するかたちで和睦を結んだ信長と今井町。
信長は最後まで戦う姿勢を貫いた今井の人々に感服し、「銘備前国長船住近景」を下賜した。
自らの足で今井町を訪ねた信長は、「やつむね(八棟)」と唱えて町を後にした。
「やつむね(八棟)」は『今西家住宅』を指し、地元の人々は「やつむねさん」と呼んでいる。
『今西家住宅』は、現在も民家として使用されている。
「止め石」から奥には立ち入らないように注意!
奈良県に住んでいても、今井町は近くて訪れたことがないという人も多いのでは?
自分の足で歩き、目で見て、感じれば、きっと何か感じることがあるはず。
今井町散策のスタートは、『今西家住宅』から始めてみて。
今西家住宅
- 住所/奈良県 橿原市今井町 3-9-25
- 電話/0744-25-3388
- 営業時間/ 10:00~17:00
備考/事前連絡要
- 定休日/月 その他休業日/祝日の場合は翌平日
- 駐車場/無(近隣に有料P有)