2022/07/30 17:45
ぱーぷる
【naranto】奈良に魅せられ、奈良によって救われた『ホテル尾花』取締役社長中野聖子さん
2022年6月1日、奈良県奈良市高畑町にあるホテル尾花は、ホテルサンルート奈良から改称して3年目に突入した。
代表取締役社長を務める中野聖子(なかの さとこ)さん(以下、中野さん)は、ぱーぷるアプリで奈良県民アワードと題した県民向けアンケート企画の「奈良のスゴイ人部門」で見事、獲得票数1位に輝いた。
ぱーぷる編集部が結果を伝えたが、第1位を獲得したことに対して、驚きを隠せない様子だった。
ホテル尾花の経営はもちろんのこと、なら燈花会、なら国際映画祭や奈良まほろばソムリエの会など、地域貢献活動に幅広く携わってきたことがぱーぷるアプリユーザーから高く評価されたのだろう。
奈良を代表するメインイベントに携わるようになったきっかけを、地域の方々に「便利づかい」されてきただけだと謙虚な姿勢で振り返った。
今や奈良を代表する女性経営者の「顔」として第一線を走る中野さんの生い立ちや奈良に対する想いに迫りたいと思い、取材を申し込んだ。
初めての「便利づかい」 地域貢献活動にはまる第一歩
実家は「映画館 尾花劇場」。1920年に中野さんの曽祖父が芝居小屋「尾花座」を映画館「尾花劇場」に変えた。
中野さんはそこで生まれ育った。
奈良に暮らす人たちの娯楽の場で生まれ育ったことで、地域に愛される生き方を自然と身につけたのだろう。
しかし、時代の変化とともに来館者が減少し、中野さんが小学校6年生だった1979年に閉業することになった。
その後、1981年、中野さんの父である重宏さんが「ホテルサンルート 奈良」を開業した。
当時の中野さんの担任教師によると、中野さんは複雑で辛そうな顔をしていたという。生まれ育った尾花の名がなくなってしまった寂しさを小さな胸にしまっていたのだろう。
小学校に入学以降、自ら立候補したわけではないが、中学1年の時を除いて小学1年生から高校3年生まで毎年学級委員を務めた。
昔から自分は「便利づかいされやすく、いいように使われる」「八方美人だったと思う」と自嘲し、できもしないことを全部引き受けてくると、母によく注意されたと懐かしむ。
1970年尾花劇場前の中野聖子さん(2歳)©中野聖子さん
4年制大学に通ったあと、周りの友人は就職活動で東京に夢を膨らます中、中野さんは何となく「奈良」を選んだ。
当時は景気がよく、就職には困らないとされた、就職バブル期。事務仕事を淡々とこなしながら、時には飲み会や合コンに参加するなど、それなりに楽しく暮らしていた。
しかし、何となく日々が過ぎていくことに違和感を感じはじめていた社会人3年目のある日、「自分にしかできないことがしたい」と思い、家業であるホテルサンルート奈良の後継ぎを申し出た。
自分から手を挙げてやりたいと言ったのは、この時だけだという。
尾花劇場がなくなってしまったあの頃の寂しさを、自分の手で変えたいと思ったのだろう。
何の知識もないまま帰ってきたが、ホテルのフロントに立ち3日で後悔することになる。
自ら覚悟して帰ってきたつもりだったが、給料が安く、休みもない現状だった。
前までの働き方が良かったのではないかとさえ感じた。
ホテルや観光の知識が全くない自分の無力さに、心身ともに苦しい日々を過ごしていた1997年のある日、「奈良 ボランティアガイドの会(愛称:朱雀)養成講座」の募集を見つけた。
お客様にご満足いただくには、奈良のことを知り、伝えていく必要があると感じていたため、上司の勧めもあって参加することになった。
しかしその講座の参加者は、仕事をリタイアしたシニア世代の方々ばかりだった。
まだ20代だった中野さんは、手伝ってほしいと頼まれ、ワープロで書類作成したり、印刷を頼まれるようになり、いつの間にか、ガイドの勉強をするはずが、事務局の業務をすることになっていた。
これが初めて「便利づかい」された時だったと話す。
自身の経験から学び得た「奈良まほろばソムリエ検定試験」
大手企業に勤め、仕事をリタイアした人生の先輩たちが、退職後に新しいことを学びはじめ、熱心に勉強している姿、壮大な奈良の物語に飲み込まれていく様子を見て奈良の奥深さを感じた。
こうして奈良の歴史に触れていくうちに中野さん自身も奈良の魅力にのみ込まれていくことになる。
歴史や文化、伝統など多岐にわたる奈良を勉強すればするほど、ホテルに宿泊されるお客様が奈良に来られる理由が分かってきた。
しかし、それでもいまだに毎日毎日知らないことに出会うという。奥が深すぎて、一生かかっても全てを理解することはできないと考えているほどだ。
ホテルを経営しながら、日々不自由なく暮らせるということは、奈良のおかげでごはんを食べられているということ。勉強すればするほど、自分の人生や奈良の歴史が少しずつ見えてきたようだ。
当時、奈良のことがわかる教科書などなかった。
より奈良の魅力を分かりやすく、勉強しやすい方法を作りたい。中野さん自身の経験を踏まえ「観光事業に従事する人たちが勉強するためのツールがあれば」という思いから、人材育成のためのプロジェクト「奈良まほろばソムリエ検定試験」をつくることにつながった。
人生に大きく影響を与えた なら燈花会
©中野聖子さん
1990年代後半から2000年代前半にかけて、奈良の魅力を見直す動きがあちこちで起こった。
その中で「なら燈花会」は1999年にスタートした。
当時、旅行組合の青年部の一員だった中野さんは、ボランティアスタッフとして参加した。
もちろんホテルの仕事もあったため、空いた時間を見つけてはボランティア業務を進めていた。
一つ一つ手作業でカップに水を入れ、ろうそくを浮かべて、火をつける。
終わればまた、一つ一つ火を消し片づける。
単純な作業ではあったが、通りかかる来場者の方に喜びの声や労いの言葉をかけられ、自己肯定感が高まるとともにボランティアの魅力にはまっていった。
2003年には初めて、開催期間10日間を全日参加したという。かつては誰でもできる仕事に嫌気がさしていたはずの自分が、誰でもできる仕事をすることで感謝される喜びをかみしめることとなったのだ。
なら燈花会を通して同じ立場の人と出会い、今につながる仲間との出会いもあった。
この地域貢献の原体験が、心を満たす特別なものとなり、人から求められることに精一杯応えることの大切さを学ぶきっかけとなった。
人生に最も大きな影響を与えた体験だった。
©中野聖子さん
大事にしている言葉「心想事成」
「強く心に想うことは成る」という意味で「仏教発見!(著:西山 厚)」から学んだ。
どんな時もまずは思うことが大事。反対に心に思ったり、思いつかないことには現実のものごとにはならないということだ。
思い描き、真摯に取り組むことが結果として「心想事成」につながる。
まさに、なら燈花会での出来事を言い表した言葉で、大切にしている言葉だとか。
他にも、仏教の概念で阿頼耶識(あらやしき)という言葉がある。
人間の根底にある潜在意識のことで永遠の生命という意味をもっており、人生をよりよく生きるために必要なものとされている。
子どものころに何を想像するか、想像させてもらえる時間とゆとりがあるかで将来に大きく影響するようだ。
尾花劇場がなくなったこと、自ら望んで後継ぎを申し出たこと、無意識のうちに小さいころに想像していたことが現実になってきているという。
奈良と仏教の深いつながりが、彼女の心を強く支えているのだ。
1920年代の尾花座©中野聖子さん
奈良の持つ魅力とは?
以降も中野さんの地域貢献活動は留まることを知らない。
奈良まほろばソムリエ検定人材育成プロジェクトの発足、NPO法人なら国際映画祭、全国大会の招致運動など数々の地域貢献に携わることになったのだ。
なら燈花会で出会ったJC(日本青年会議所)とのつながりから、2005年に全国大会の招致運動に参加し、奈良を説明するプレゼンテーションまでも行った。
プレゼンテーションでは、いかに奈良を知らない人に奈良の魅力を伝えられるかがポイントになる。
必死の思いで奈良をプレゼンしたが、会長に「地域のエゴでしかない」と言われた。「エゴ」というとネガティヴな印象で捉えられるが、中野さんは「エゴ」を「誇り」と言い換えて捉えたという。
多少独りよがりになっていたとしても、知らないよりは知っていた方がいい。
ふるさと自慢は独りよがりになるが、奈良を検証すればするほど「独りよがり」という言葉では済まされないくらい、奈良は日本の精神風土や文化風土を最初に作っていると感慨深げに話してくれた。
奈良は言葉では形容できないほど奥深いのだ。
また、中野さんいわく、奈良は保存の天才といわれているようだ。
政治の中心から距離を置きつつ、永遠と南都を守ってきた歴史は、いかにも持続維持可能である。
奈良の人は商売が下手だと言われるが、反対に商業主義に走っていないからこそ歴史が残っているし、保存されてきたと語る。
古代の人が考えてきたことは、今も活用できるものの考え方や捉え方がある。
消えそうなものは消えないようにとどめて置いておく必要があり、我々は消費され過ぎない奈良を守っていかねばならない。
やっと辿り着いた「復活」の時。思い描く『ホテル尾花』の未来
「愛染かつら」で大盛況となった尾花劇場©中野聖子さん
家業の後継ぎを決意したときの「自分にしかできないことがしたい」という想いを、ようやく50歳になった今、実現できてきていると実感しているようだ。
それもそのはず。1979年に尾花劇場を閉め、1981年にホテルサンルート奈良をはじめてから40年。
サンルートホテルチェーンとの契約が終了することから、思い切って「尾花」の名前を掲げ、2020年に「ホテル尾花」とへ改称したのだ。
会議室を大型スクリーンで映画上映ができる場所として開放するなど、まさに映画館 尾花劇場が復活した。あの頃の想いがようやく実を結んできた。
生まれ育ったあの映画館 尾花劇場を、思い出が沢山つまったあの映画館 尾花劇場が、ここによみがえってきたのだ。
今や映画はネットやアプリ、サブスクリプションで観れてしまう。
しかし、映画は「誰かと一緒に見ることが大事」と中野さんは考える。
「音も絵も色も、真っ暗な中でその時間、全身体拘束されて観る。
全集中で観る没入感がすごく大事。みんなが息をのむ感じ、共感の呼吸の中にのみ込まれていく感じは一人では味わえない」と語ってくれた。
2人姉妹の長女として生まれた中野さん。
こうして復活したホテル尾花も、後継ぎは今のところいない。
「建物はいつか朽ちる。いつか自分から幕を閉じる時がくると思うし、バトンを渡す時がくるかもしれない。
少なくともサンルートから尾花へと名前を変えたので、尾花の屋号だけは何かの形で残したいと思っている。
尾花の歴史はおもしろいと思ってくれる人が尾花の名前を残してくれてよかったと思ってもらえるように、これからの尾花を作っておかなければならない」と話してくれた。
尾花として残さなければならないことを日々スタッフで考えているという。
人に楽しんでもらえる場所だっただろうから、楽しんでもらえるような仕組みがあればおもしろいという思いから、お土産売り場を、奈良で頑張っている人の商品を紹介する展示場所として活用している。
また、会議室やロビーを開放することで、公民館のような使い方をしてもらうようリーズナブルな料金設定で地域の方々に貸し出している。
さらに、ホテル尾花のロビーには、奈良にまつわる書籍をたくさん本棚に並んべているため図書館のような利用方法も可能だ。
まさに、当時の映画館「尾花劇場」が奈良に暮らす人たちの娯楽の場であったように、「ホテル尾花」が地域の人たちに愛される憩いの場になろうとしている。
今年は満を持して地域の地蔵盆の実行委員会に名乗り出た。
数多くの地域貢献活動に携わってきたが、まだまだ、中野さんの活動の輪は留まることを知らない。
今回の取材を終えたのち、飾らない人柄と心の奥底に眠る熱い野心を感じた。
「また必ずお会いしたい」と思った。中野さんに奈良のことを教えてもらいたいと、中野さんに会った人がみな魅了されていく気持ちがわかった。
こうして、中野さんの周りには自然と人の輪ができてきたのだろう。
そしてこれからも広がっていき、これまで活動してきた過去と、これからの未来を結ぶ同線上に、中野さんにしか表現できない、ホテル尾花像があるのだろう。
これからの中野さんの活動、ホテル尾花の展開に目が離せない。
尾花の看板を掲げた瞬間は言葉にならないほどの思いが込み上げてきたと振り返る。胸いっぱいの表情を浮かべる 中野聖子さん
ホテル尾花会議室“桜の間” の大型スクリーン©中野聖子さん